2018年4月7日土曜日

現代の原始人

ふと思いついたことをメモとして残す。

新興宗教などカルトも含め、宗教にはまってしまう人。なにか神秘的な存在を信じてしまう人。マルチ商法(喫茶店なんかで勧誘してる)にはまっている人たちも同じような傾向がある。

はまってしまう人(本当に信じてしまう人)の多くは、動物的・原始的な部分ののこる人なのではないか?つまり原始人。

なぜ、はまるのかなと考える。

宗教にはまる人の多くは、薄幸な人が多い、悲しい過去を持っている。近しい人を不慮に失った、貧しい、貧しい家庭に生まれた、その人の責任ではないことも多いので、善悪をつけるつもりはないが、簡単に言えば、「幸せで満たされていたなら、救いは要らない」のである。

幸せでない人が宗教にはまる。宗教は、幸せでない状態に「理由」を与えるのだ。これは、なにがしかがくれた「試練」である、とか、これは、前世でなになにをしなかった「罰」だ、とか。

いわせてもらえば、この世のすべてに意味などない。ただそこに納得したい、意味を見つけたいと思うそこに神秘的な意味をくっつけて、納得するのは、古代的な思想を感じるのだ。おばけやら、魂やらを信じているのと同じである。近代以前は、多くの人が、信心深かったんだと思う。科学的な思考がなければ、納得するためには、神とか奇跡とか「理由」をつけないとつじつまが合わないから。つじつまが合わない=納得できない=不幸 なのである。
お金がなくて大変だ。で、宗教にはまっている人は、「働く」代わりに「お祈り」をする。今の状況を抜け出す方法・今の状況にある原因を、宗教の中に求めてしまう。方法や原因なんて、簡単じゃないし、それを究明することは難しく、つらいことかもしれない。そもそも方法も原因もない場合もあるだろう。そこに簡単な解(納得感、解決した感覚)を与えてくれる宗教は有意義だとは思うんだ。

各地に残る宗教的習慣は文化として尊重するし、馬鹿にしているわけでは決してない。信じることで幸せなら、信じることもいいともう。貧乏な家にうまれれば、そのまま貧乏なことが残念ながら普通だ。信じることで幸せになり、社会にも貢献してくれればなおすばらしい、ただ、その宗教を回りに広めようとする人々はしょうもない。

「正しさ」とは基本的に「数」なのだ。多数がいいと思えば、それが「正」。

なんらかの宗教を信じている人に聞きたい。あなたの宗教を信じている人はこの地球上の何%ですか?人間が誕生してから長い年月がたっていますが、あなたの信じる宗教が正しければ100%でなければならないんですよ。新興宗教ならなおさらだよ。本当に正しければ、ネット社会ですぐ広がって、すぐ100%になるんだよ。 

机がある。その机を囲む10人。あなたには机の上にコップに見える。もう一人は、それは人形であるという。でも、8人は机の上にはなにもないという。

宗教の場合は、「机の上にコップがある」と、あなたは吹き込まれただけだよね。

こんなことを書いても、宗教というのは、こういう意見にも「理由」をつけて反駁し、宗教から抜けにくいように作られている。多数がいうことが真実ではない・・とか。 笑える。

他人の意見を尊重しない人間に、人生がどうあるべきかという資格はない。

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